ドーンレーベルについて

ドーンレーベルとバリー・マレー

手元に日本コロンビアから1971年5月に配布された、Dawnレコードのサンプル盤「Dawn Now Rock/Jazz Series」がある。実は72年にはコロンビアとDawnの親会社PYEレコードの契約が解消され、DawnとPYEのレコードは日本ではテイチクから発売される事になるが、この時点ではコロンビアからリリースされていた。
内容は、マンゴジェリーのヒット曲が2曲、マイク・クーパーが2曲、アトランティック・ブリッジが2曲、デモン・ファズが2曲、タイタス・グローンが2曲、ほかにカムスの「ダイアナ」(もちろんコーマスのことであるが、この時点では正しい読み方がわからなかったようだ)、ジョン・サーマンとジョン・マクローリンが1曲、(もちろん、現在は「ジョン・マクラフリン」として読み方が統一されている人物だが、当時はまだマハビシュヌ・オーケストラでメジャーになる前で今ほどは知られていなかった。ただし実際の発音はマクローリンが近い)、ヘロンの「リトルボーイ」、BYGレーベルからアインズレー・ダンバー(現在はエインズレーと発音が訂正されている。本人はリバプールなまりがあり、アインズレーと発音していた)のソロアルバムからの曲が1曲収録されている。(英Dawnと仏BYGとの間につながりがあったか定かではない。この時期は日本コロンビアが仏BYGの販売権を有していたため、同じような半端なインディーズものとしてDawnのサンプルに挿入したと考えるのが妥当であろう。)
このアルバムの裏面の解説には、イギリスのレコードレーベルの分布図とともに、「ドーンレーベルの位置」という短い解説が付いている。興味深いので引用しよう。

ーーードーン・レーベルのアーチストの特色を見ると、別表の図解が出来上がる。概して多くのプログレッシブ・レーベルの表と比べて違う大きな点は(ママ)ロックとカントリー・ブルースが深くつながる点である。これは他のレーベルとはドーンの特色である。そして、その多くがアコースティックのグループであることもこのレーベルのユニークさを物語っている。それと共にデモン・ファズやノアのような黒人グループの存在も「アフロ・ミュージック」という最もこれから期待されている分野だけに注目しておかなければならないだろう。ドーン・レーベルが他のプログレッシブ・レーベルと異なる点はこの2つだが、1つ1つのアーチストが全く個性的な味を持っているだけにその総括は極めて難しい。ドーンの3人のプロデューサーがそれぞれの個性でそれを処理しているようだが、その3人が別種の味で3つのカラーを出して行くだろう。ーーーー

chart

ここで言っている別表は、どう見てもDawnがデラム、ヴァーティゴ、ハーベスト、カリスマなどに対抗して設立されたブログレレーベルであることを示しているだけのものなので、上の文章は正直、筋が通っていない。まあ、英文の資料と、レコードを渡されたライターが、プログレ・レーベルのはずのドーンにはどう聴いてもフォークやただのジャズ、ブラックロック、気の狂ったような異形のサウンドなどが並んでいる状態を日本人になんと説明したらよいのやらと・・・苦悩した様が見て取れる文章である。
現実と企画との間の「ズレ」というのはいつの時代にもあるもので、Dawnレーベルの場合はこういう形で現れていると言えばいいだろうか。

この1971年当時の解説で「プログレッシブ・レーベル」と呼ばれている通りDawnはちょうど、フィリップスの<Vertigo>、EMIの<Harvest>、RCA(UK)の<Neon>と同様に、英国の既存のレコードメーカーであったPYEが新時代の「ニューロック」に乗り遅れまいと設立したサブレーベルである。日本生まれの「プログレ」という言葉は、今では世界で定着しているが、当時のイギリス人には知られていないので、後述するように当事者たちはせいぜい「グルーヴィーでサイケな」レーベルを作ろうくらいに考えていたと思われる。結果として、このレーベルは、日本のセールス担当者も困惑するほど、めちゃくちゃなメンツの様々なレベルの作品をリリースすることになる。

Fruupp

まず、このレーベルをプログレ・レーベルとして印象づけているのが、イギリスの3大マニアック・プログレともいうべきバンド、コーマス<Comus>、フルップ<Frupp>、タイタスグローン<Titus Groan>だ。プログレという言葉でくくるには、あまりに個性的な音楽だが、説明するまでもなくマニアにはおなじみだろう。
この他でプログレと呼ぶべきバンドと言えば、3枚のアルバムをDawnからリリースしているジョーンジー<Jonesy>(ビートポップのトランペット奏者のアラン・ボウン<Alan Bown>が途中から加わった事でも有名だが、ボウン以前のデビューアルバムがポップなクリムゾンとでもいうべきタッチですばらしい)。

Jonesy

さらにクワイエット・ワールド<Quiet World>(のちにミュージカルで成功するヘザー兄弟が結成した8人組で、スティーブ・ハケットとその弟が在籍した)、ヴァーティゴから移籍したグレイビー・トレイン<Gravy Train>、さらにマイナーなクイック・サンド<Quicksand>、ブラスロックバンドのトライフル<Trifle>もぎりぎりプログレと呼ぶ事はできるだろうか。

Atomic Rooster

しかし、72年に移籍してきてメイド・イン・イングランドをDawnからリリースしたアトミック・ルースター<Atomic Rooster>や元ファウンデーションズ<The Foundations>のメンバーが結成したプルートー<Pluto>あたりはプログレというには無理があるサウンドだ。こうしてみるとプログレのリリースは意外なほど少ない。
Dawnには、他にもイギリスの代表的フリージャズプレーヤー、ジョン・サーマン<John Surman>やフュージョンの先駆者とも言えるアトランティック・ブリッジ<Atlantic Bridge>を擁するため、いくつかのジャズカタログがある。数は少ないが、ストレイ<Stray>やポットリカー<Potliquor>などのアメリカンロック、大ヒットを飛ばす直前のグラム系シンガーソングライター、ジョン・コンゴス<John Kongos>、イアンデューリーのプレ・パンク/パブロックバンド、キルバーン&ハイローズ<Kilburn & the High Roads>、先の引用にも登場したデモン・ファズ<Demon Fuzz>、ノア<Noir>、さらにはカーティス・ナイト・ゼウス<Curtis Knight Zeus>などのファンク、ブラックロック系・・・と、その無節操ぶりは果てしない。

The Trio

しかも、商業的にDawnを支えたドル箱アーチストは、これまでのすべてのアーチストとほとんどつながりがないように思える、フォーク、アコースティック・ブルースのアーチストだ。そのジャンルには、当然、Dawnの収益のほとんどをたたきだした、マンゴ・ジェリー<Mungo Jerry>とそのスピンオフバンド、キング・アール・ブギーバンド<King-Earl Boogie Band>、そのコピーのようなブロンクス・チェアー<Bronx Cheer>、イギリスでは特に名高い、ドノヴァン<Donovan>やマイク・クーパー<Mike Cooper>、ジュディ・ダイブルがいたトレーダー・ホーン<Trader Horne>、マンゴ関係以外でDawnにほぼ唯一のシングルヒット(21位)をもたらしたコーラスグループ、プレリュード<Prelude>、英フォークブルースの大御所、ポールブレッド・セージ<Paul Brett’s Sage>、60年代にヒットを飛ばしたアイルランドのシンガーソングライター、デヴィッド・マクウィリアムス<David McWilliams>そして、英マイナーフォーク界の至宝ヘロン<Heron>などが含まれる。
いやあ、これはどう考えても事実上1970から1975年までしか活動しなかったレーベルとは思えない迷走ぶりだが、逆にこのレーベルの奥深さでもある。

Mungo Jerry

著者は常々、この迷走ぶりの根底には、親会社のPYEレコードの焦りがあったのではないかと推測してきた。
50年代に設立されたPYEは、例えばEMIやフィリップスのようにクラシックの膨大なカタログを持つ老舗と比べれば、独立系と呼べるような会社だが、60年代にはペトラ・クラーク、サンディ・ショウ、サーチャーズ、キンクス、アイビーリーグ、ステイタス・クォーとシングルヒットを量産した。英国の<歌謡界>を支えていた感のあるドメスティックなレーベルだ。確かに日本で言えば、演歌で時代を築いた日本コロンビアやテイチクと似ているかもしれない。
しかし、60年代も終わりが近づくと、PYEのシングル歌謡曲路線は変調をきたす。PYEのドル箱、キンクスはシングルヒットを出さなくなり、テーマ性のあるアルバム作りとアメリカ進出をにらんでRCAへ移籍。ファウンデーションズ、ロングジョン・ボールドリー、ピケテウィッチ、フライングマシーンなどのヒット曲を手がけ、「ミダスタッチ」(触るものをすべて黄金に変えるミダス王の伝説にひっかけて)と評されたプロデューサー、トニー・マコウレイも、アメリカでの成功がまったく収入に結びつかないPYEに見切りを付けて、アメリカの大手レーベルが設立したUKベルに移籍してしまう。この頃既に若者の指向は、PYEが得意とした歌謡曲的ポップソングからは離れつあった。ミュージックビジネスでは、サイケデリックとロック的センスが欠かせなくなっていた。
しかし、まったくそのような分野にうとかったPYEの首脳陣は、とにかく若造を捜し出して、とりあえず彼らに実験的なレーベルを運営させる事にした。もちろん、ヒットが出なければ、DawnはRCAのNeon同様に本当に短命で終わるべきレーベルだったはずだ。「イン・ザ・サマータイム」の予期せぬヒットが、Dawnを生きながらえさせ、思わぬ展開を生んだのだ。つまり、若造たちが長期的戦略などなしに、気分だけででたらめなアーチストをデビューさせるすばらしい状況(?)が数年間も維持された。

先の引用にある通り、Dawnには最初3人のメインプロデューサーがいた。

もちろん、すべてのリリース作を3人が手がけた訳ではない。例えば、移籍してきたグレービー・トレインやアトミック・ルースターにはプロデューサーがついていたし、他のレーベルメイトと毛色がちが合うプレリュードは、クラナドでも知られるフリッツ・フライヤーやイアン・サムウェルらがあたっている。
アイルランド出身のフルップや方向性が定まらなかったジョーンジーも、毎回プロデューサーが変わったが、フルップの最後アルバム「当世風仮面舞踏会」は、なぜかキングクリムゾンのイアン・マクドナルドが、ジョーンズィーの(Dawnでの)最後のアルバム「Glowing」は、若き日のルパート・ハインが(ちなみにストリングスアレンジに故サイモン・ジェフズ(ペンギンカフェ・オーケストラ)、エンジニアにスティーブ・ナイ、パーカッションにモーリス・パートなど、後のルパート・ハイン一家が総参加している)担当した。
もっとマイナーなのは、モーガン・スタジオのジェフ・ジル(元スモークのドラマーで、オスカーなどを手がけた)がプロデューサーとクレジットされている、クイック・サンドだ。なぜこの人なのか、人脈的にもわからない。
あと、もちろんポール・ブレッドやカーティス・ナイトのようにセルフプロデュースが前提のアーティストもいた。

しかし、少なくとも当初のDawnの方向を決めたのはメインプロデューサーたちである。

ジョン・シュローダー<John Schroeder>は、EMIのA&Rマン助手としてスタートし、ヘレン・シャピロの61年の全英No.1ヒット「夢見る恋」<Walkin’ Back to Happiness>の作曲者(「子供じゃないの」「悲しき片想い」も共作者である)としてよく知られている。60年代半ばにはPYEに移籍し、Sounds Orchestralなどいくつかの名前を名乗ってイージーリスニングヒットを飛ばした。プロデューサーとしては、PYE / Piccadillyで初期ステイタス・クォーなどのプロデュースを行った。
彼は初期のDawnで、マン<Man>、ジョン・コンゴス、クワイエット・ワールド、トライフルなどをプロデュースしているが、決してDawnの専属という言う訳でもなく、PYEでの大事な仕事の傍ら、若者向けの冒険だと思われるアーチストのリリースはDawnで行った・・・程度の関わり方に見える。73年以降は自分のレーベルAlaskaを立ち上げたため、Dawnの仕事は一切していない。

Trifle

もう一人のプロデューサーは、フォークやジャズのレコードを多くリリースしたピーター・イーデン<Peter Eden>だ。なんといっても、イーデンはドノヴァンを見いだしたことで知られているが、もともとはミュージシャンで、マイク・サーンのバックなどで演奏していたらしい。1964年に小ヒットを飛ばした、コップス&ラヴァーズのマネージャーを手がけたことからドノヴァンを紹介され、マネージャー/プロデューサーとなる。PYEでリリースしていたドノヴァンとマイク・クーパーもDawnに移籍させ、さらにデラムからリリースしていたジョン・サーマンや、サーマンがバール・フィリップス、ステュ・マーティンと組んだザ・トリオ<The Trio>のアルバムもプロデュースした。
田舎でコミューン生活していた、ニューエイジのフォークグループ、ヘロンも、彼が手がけている。
しかし、イーデンもDawn専属のプロデューサーではないようで、他のミュージシャンのアルバムでは、同時期にデラムやスパーク(UK Spark)などでも仕事をしているし、フリージャズのハワード・ライリーやマイク・オズボーンなどの商業的に厳しそうなアルバムは自身のタートル(Turtle Records)からリリースしている。
イーデンは音楽に対する姿勢も一貫したものがあり、プロデューサーとしてもいい人のような気がするが、ドノヴァンがエレクトリックに方向転換し、そのために起訴に巻き込まれて彼を手放さざる意を得ない形になったこともあり、次第にミュージックビジネス自体に失望していったようだ。Dawnとの関わりも1972年が最後である。

Heron

上の二人が、他のレーベル兼任で就任したプロデューサーであったのにくらべ、なんといってもDawnレーベルで中心的役割を果たしたプロデューサーといえばバリー・マレー<Barry Murray>なのは間違いない。
バリー・マレーについては、実に資料が少ない。ただ確かなのは、彼がDawnレーベルで、マンゴジェリー 、トレーダー・ホーン、アトランティック・ブリッジ、タイタス・グローン、デモン・ファズ、コーマスという実に重要なラインナップをすべてプロデュースしたことと、(ドル箱であるマンゴ・ジェリーは、彼が命名しデビューさせたバンドであることからも分かるが)Dawnに関しては、多くの決定権を持っていたであろうということだ。
ただし、彼が素晴らしいプロデューサーであったという証言や、評判はほとんど皆無である。
一体、バリー・マレーとはどんな人物だったのだろう。

Ray Dorset Interview

Dawnのミュージシャンで実際に、バリーと旧知の仲だったのは、マンゴ・ジェリーのフロントマンであるレイ・ドーゼット<Ray Dorset>くらいかもしれない。ドーゼットはあるインタビューで、マレーについて「あいつは昔からの友達だった」と語っている。ドーゼットによれば、バリー・マレーがDawnのために最初用意したバンドはマンゴ・ジェリーではなく、トレーダー・ホーンであったようだ。
トレーダー・ホーンは、もとゼム<Them>のジャッキー・マコーレイ<Jackie McAuley>と、フェアポート・コンベンションの初代ボーカリストで、キングクリムゾンのイアン・マクドナルドの彼女でもあったジュディ・ダイブル<Judy Dyble>が組んだフォーク・デュオだ。ビッグネームでないにしろ、2人とも当時は先端をいくエッジなミュージシャンで、ブレイクの期待度は高かったに違いない。マレーは、すでにこれ以前からPYEでプロデューサーの仕事についており、アバンギャルドな新レーベルをまかされることが決まっていたようだ。マンゴジェリー、トレーダー・ホーン、タイタス・グローン、コーマスなどをマネージメントした「レッドバス・カンパニー」も、マレーが2人のビジネスパートナーと同時に設立した会社で、トレーダー・ホーンのアルバム制作をすすめると同時に、彼らをデビューさせるイベントとしてハリウッド・フェスティバルという野外フェスを企画していた。(ここで言うハリウッドは、バーミンガムの南に位置する、英国ミッドランドの小さな村の名前)しかし、”奇妙な理由”でジュディ・ダイブルが出演を拒否したため、マレーは急遽代役を見つけなければならなくなった。彼らはすでに、グレイトフル・デッド、ホセ・フェリシアーノ、ブラックサバス、フリー、トラフィック、ジンジャーベーカーズ・エアホースなど超大物たちをブッキングしていたのだから、それも当然だろう。
そのとき、ふと目に留ったのが旧知のレイ・ドーゼットが仲間とメロディーメーカーに出した新バンドを告知する広告だったのだという。
「前に仕事した事があって、あいつはオレが以前にやっていた曲を覚えていてくれたんだ。だから電話で説明したよ。サイケデリックから路線変更して、いまはスキッフルとロカビリーをやってるってね!その方がうれしそうだった」
アレンジャーらと、ドーゼットの新バンド<The Good Earth>の演奏を聞いた、マレーは、その場でアルバム制作をオフォーし、「イン・ザ・サマータイム」はヒットシングルになると予言したらしい。無論フェスティバルへの出演もオファーされたが、「その名前は変えなきゃなあ!」というのが彼らの条件だった。
レイ・ドーゼットが旧知の仲で、大きなチャンスをくれたマレーを悪く言わないのは当然だ。

もう一人、マレーを多少なりとも好意的に記憶しているのが、トレーダー・ホーンのジュディ・ダイブルだろう。ダイブルは(自らの公式HPで)当時をこのように振り返る。
「トレーダー・ホーンを最初にマネージメントしてくれたのは、スティーム・ハンマー<Steamhammer>のマネージャー、バリー・テイラーだった。彼がしばらくの間私たちに仕事をとってきてくれた。それから、どういう訳かバリー・マレーが私たちを見いだして、パイレコードへ連れて行ったの。バリーは、パイレコードのグルービーでサイケな新レーベルDawnのプロデューサーをやっていたのね。私たちは、マネージメント・エージェンシーのレッドバス・カンパニーとも契約したわ。バリーは制作面では彼らと共同でやっていたのよ。(最近気がついたんだけど、バリーは私より年下なのよ!ビックリでしょ!だってこのときはすごく大人に見えたわ。)彼はその後、マンゴ・ジェリーのプロデューサーやそのほかのことでも(ポール・ダニエルと一緒に、子供番組の「ウィズビット」<Wizbit>を制作したのよ!)大成功したのよ」
トレーダーホーンは、その後アルバムをリリースするが、ドーゼットの証言にもあるように、売り出すはずのハリウッド・フェスティバルをダイブルの情緒不安定からキャンセルしたため終焉を迎える。これについてはダイブル自身、自分が悪いのだと述べている。
ダイブルの言葉で大変興味深いのは、彼女がバリー・マレーが自分より年下だと気づいたと書いている事だ。マレーの公式なバイオグラフィーはどこにも存在しないので、彼女の言葉を信じるしかないのだが、もし本当だとすればこれはとんでもないことだ。なぜなら1949年生まれのジュディ・ダイブルは、この時点、つまりトレーダー・ホーンがデビューし、Dawnが活動を開始した1970年で、まだ21歳だったはずだからだ。当然彼女より年下のバリー・マレーは、20歳そこそこだったことになる!
ダイブルの相棒のジャッキー・マコーレイも、レイ・ドーゼットも24歳で、もちろんこの時代のミュージック・ビジネスには若さがあふれていた。そもそも、この時代のロック/フォークは今とは違い大人世代には理解不能の世界で、若者だけが熱狂していたのだから、制作側も若いのは当然だ。
それにしてもだ!英国の老舗レーベル、PYEレコードが次世代の命運をかけた次世代プロジェクトの中心人物がなんと20歳そこそこの若造だったというのは実に衝撃だろう。(26歳のマイクカーブがアメリカのMGMの社長に就任した時、副社長に招いたマイケル・ロイドは19歳だったらしいが。ま、アメリカならまだありうるはなしだろうけれど・・・。)

バリー・マレーはいかにして、Dawnのプロデューサーに任命されたのか?詳細は分かっていない。少なくとも、PYEレコードに関わる以前のマレーは、英国の老舗ブルースバンド、サボイ・ブラウン<Savoy Brown>周辺で、マネージャーのような仕事をしていたようだ。(後にはサボイのレコードもプロデュースしているし、73年のレコーディングではパーカッションとして自身が参加している。とは言っても、もし10代なら実質ローディーのような仕事だろう)
サボイ・ブラウンは、65年から今日まで存続して、膨大な数のミュージシャンが関わっている、英国ブルースの巨大ファミリーツリーを形成するバンドだ。1968年から70年まではドラムには、のちにフォガット<Foghat>を結成するロジャー・アール<Roger Earl>が参加していた。このロジャー・アールは、マンゴ・ジェリーのピアニスト、コリン・アールの兄であり、レイ・ドーゼットとも旧知の仲である。ロジャーも、マンゴのセカンドアルバム<Electronically Tested>ではゲストでドラムをたたいているので、マンゴ・ジェリー自体が、サボイのファミリーツリーの端に位置してるとも言えるかもしれない。
ともかく、マレーとドーゼットは共にサボイ・ブラウンファミリーから出発したという共通点があった。
バリー・マレーは、ドーゼットやダイブルに声をかけ、Dawnというレーベルを準備する以前から、PYEでプロデューサーの仕事に就いていた。今日、その仕事として記録が残っているのが、「ブロンド・オン・ブロンド」<Blonde on Blonde>という、サイケデリック・フォーク/ブルースバンドのデビューアルバムである。

Blonde on Blonde

ブロンド・オン・ブロンドは、察しがつく通りボブ・ディランの同名アルバムから名前をとったウェールズのバンドで、ギター/シタール/リュートのガレス・ジョンソン<Gareth Johnson>、ベースの他ハープシコードやセレステも演奏するリチャード・ホプキンス<Richard Hopkins>、ドラム、タブラのレス・ヒックス<Les Hicks>に、ヴォーカルのラルフ・デンヤー<Ralph Denyer>が加わってスタートした。ロンドンへ進出すると、ミドルアースというヒッピークラブのフェスティバル「Magical Mystery Tour」に参加して評判をとり、さらに来英したジェファーソン・エアプレインのオープニングアクトを獲得した事で知られるようになる。バンドはPYEと契約し、プロデューサーをまかされたのがバリー・マレーだったのだ。
彼らのファーストアルバム「Contrasts」は69年にJanus Records(PYEのカタログをアメリカでリリースしていた)からリリースされた。(ちなみに当時に日本盤もコロンビアから発売されている。)全体のトーンはフォーク調なのだが、シタールやらタブラやらチェンバロなどがサイケデリックな風味を付け加えている楽曲も多い。60年代のヨーロッパ映画のサントラのように聴こえる、物悲しいオーケストラをつけ加えたエリナ・リグビーのカヴァーはユニークだろう。しかし、プログレと呼ぶにはまだエッジのぼやけた音楽と言わざるを得ない。
(バンドはこの後メンバーチェンジを行い、マイナーレーベルから2枚のアルバムを発表。いずれも商業的には成功しなかったが、音楽的には今日、隠れたプログレの名作として高く評価され、CD化もされているのは皮肉である。)
このアルバムで、一つ目を引くのが「Goodby」という曲。アルバムの中でも普通のポップナンバーで、アルバム全体からは浮いた感じの曲だが、メンバーのペンになるものではなく、作詞作曲がジョン・ゴドフリー<John Godfrey>/バリー・マレーとなっている。(94年以降にCD化されたものでは、シングル盤のB面「Country Life」がボーナストラックとして収録されいるが、この曲も同様である)この後、バリーが楽曲を提供したのは、マンゴ・ジェリーとジーニン・ピットニーくらいなものなので、これは珍しい。しかも共作者ゴドフリーは、マンゴジェリーのアップライトベース奏者マイク・コールが辞めた後、ベーシストとして参加した人物ではないか!マンゴに加わる前にも、トレーダーホーンのアルバムでベースを弾いているが、ダイブルからはメンバーとしては扱われていないので、基本的に昔からのバリーの知り合いと言う事なのだろう。
レコードが大ヒットしたときの為に、ビジネス的に保険をかけたのかもしれないが、少なくともこの頃までは、バリーもアーチストに近い位置でプロデュースを行っていたのだろうと思わせるエピソードだ。
ところで、アルバム一枚でブロンド・オン・ブロンドを離れ、アクィラ<Aquila>というジェズ/ブラスロックバンドを結成するラルフ・デニヤーは、後にギターの教則本で有名になる人ではあるが、ミュージシャンとしては成功したとは言いがたい。しかし、彼はこの時代にかなり顔が広い人物で、多くの人のインタビューに名前が出てくる。デニヤーはブロンド・オン・ブロンドより以前にいくつかバンドをやっていたのだが、彼がフロントマンのバンド、SW4でリードギターを弾いていたのが、若かりし日のポール・ブレッド<Paul Brett>だ。ブレッドはのちにストローブス<The Strawbs>を結成するデイブ・ランバート<Dave Lambert>がいたサイケデリックバンド、ファイアー<Fire>のメンバーとポール・ブレッド・セージ<Paul Brett Sage>を結成し、Dawnからも2枚アルバムをリリースする。このポール・ブレッド・セージに、タイタスグローン解散後、ギターのスチュアート・カウエルが移ってくるのであった。スチュアート・カウエル<Stuart Cowell>は、インタビューで「ポール・ブレットの事は、主にジム・トーミィ<Jim Toomey>やラルフ・デニヤーを通じて知っていた」と語っている。ジム・トーミィはもちろんタイタスグローンのドラマーで、それ以前にもカウエルとジョン<Jon>というサイケデリック・バンドを組みシングルをリリースしているし、ポール・ブレットとは、アーサー・ブラウンのバックバンド時代からの仲間だ。
問題はデニヤーとカウエルの接点の方である。See For Mileレーベルからリリースされたタイタス・グローンのCDには、資料としてメンバーのタイタス以外での簡単なキャリアが書かれているが、スチュアート・カウエルは60年代に<The Rockhouse Band>というグループに在籍していたという記述がある。ロックハウスと言えば、短命ではあったがホリーズ<The Hollies>のオリジナルベーシスト、エリック・ハイドック<Eric Haydock>のバンドとして数枚のシングルを発売したマンチェスターのビートグループ、ロックハウス<Haydock’s Rockhouse>が知られているので、筆者はカウエルが在籍していたのはこのバンドだと理解していた。ただ、一つ問題があって、このハイドックのロックハウスのレコーディングプロデューサーは、前出のDawnのプロデューサーの一人、ピーター・イーデンだったのだ。もともと、カウエルがピーター・イーデン人脈の人物なら、なぜタイタス・グローンは、バリー・マレーのプロデュースでデビューしたのだろうか?
しかし、つい最近この疑問は意外な解決をみた。イギリスのミュージックシーンには、同時期にマンチェスターのロックハウス<Haydock’s Rockhouse>ともう一つロンドンベースのロックハウスバンド<The Rockhouse Band>というグループが共存していたようなのだ。ややこしい!!
このロックハウスバンドの方は、レコーディングをしないうちに解散したグループなので詳しい資料がないが、ボーカルにラルフ・デニヤーがおり、後にファウンデーションズに参加するピーター・マクベス<Peter Macbeth>がベーシストとして参加していた事がわかっている。ちなみに本筋とは関係ないが、近年このピーターマクベスは、71歳で、4件の少女への性的暴行と、ネットでチャイルドポルノをダウンロードした容疑で逮捕、投獄されている。
当然、スチュアート・カウエルが参加していたのは、このロックハウスバンドのほうだったに違いない。デニヤーとカウエルが元バンドメイトであれば、カウエルが結成したバンド、タイタス・グローンをデニヤーがブロンド・オン・ブロンドのプロデューサー、バリー・マレーに紹介したとしても不思議はない。
調べた限りカウエルは、バリー・マレーについて証言を残してはいない。

Paul Brett Sage

しかし、まともなプロモーションもされずにまったくブレイクしなかったタイタス・グローンが諦めよく(ただし、リード奏者のトニー・プリーストランド<Tony Priestland>の事故による怪我が影響している可能性は否めない)解散した後、カウエルはさっさとポール・ブレッド・セージに参加して、バリー・マレーの影響下から去ってしまった。ある意味、嫌気がさしていたのは間違いないだろう。
ポール・ブレッドのバンドは同じレーベル内にいながら、プロデュース権はブレット自身が有しており独立した存在であったと思われる。
実は1曲たりともヒット曲を有していないブレッドがそれなりの地位を持っていたのは、彼が60年代から多くのバンドに関わってきた名うてのギタリストだったからだけではなく、当時シリル・スティプルトン・オーケストラ<Cyril Stapleton Orchestra>のギタリストだった事(ちなみにポール・ブレッド・セージのデビューアルバムもスティプルトンのプロデュース)が大きいのではないかと推測している。シリル・スティプルトンは、50年代に多くのヒットを持ち、この時期にも「秘密指令S」などの素晴らしいTVドラマテーマを手がけていた英国イージーリスニング界の大物だが、もう一つの顔は1965年から勤めていたPYEレコードA&R部門のトップというものだ。つまり、レコード制作部門の最高責任者という事になる。ステイプルトンと直接的なつながりを持っていたブレッドは、PYEにおいては単なる所属アーチストとは違う扱いだったと思われる。

Cyril Stapleton

ブレットはこの時期、自分のバンド以外にも、ポール・キング<Paul king>のソロアルバムをプロデュースしている。ポール・キングはマンゴ・ジェリーのオリジナル・メンバーで、ドーゼットが主張したバンドのエレクトリック化の方向に反対して、ピアノのコリン・アールとともにマンゴを去った人物である。初期のマンゴ・ジェリー音楽はかなりの部分、キングのテイストが反映されているので、そのソロ・アルバムも初期のマンゴジェリーそのものだ。ギターにはゲストで、ブレットとスチュアート・カウエルが参加している。
マンゴ・ジェリー&バリー・マレーに反旗を翻した、ポール・キングが同じレーベル内で自分のソロアルバムを託したのが、マレーとは一線を画すブレットだったというのは、ある意味象徴的だろう。
このアルバムはヒットしなかったが、キングがコリン・アール、そしてブレットの以前のバンドメイトでの後にデイブ・カズンズとストローブスを結成するデイブ・ランバートと結成したキング・アール・ブギーバンドは、「プラスティック・ジーザス」<Plastic Jesus>というBBCに放送禁止を食らうスマッシュヒットを放った。(プロデュースは、デイブ・カズンズ。)

一方、かなりのミュージシャンが、プロデューサーとしてのバリー・マレーを好意的には記憶していない。
「まあ私見だが、デモンファズ<Demon Fuzz>が <”Afreaka!”>をレコーディングした当時で、プロデューサーのバリー・マレーは、我々がバンドとして目指していた方向性をまったく理解していなかったんじゃないかと思うね」
ワックス・ポエティック・マガジンのインタビューに答えて、デモンファズのギタリスト、ウィンストン・ラファエル・ジェセフ<Winston Raphael Joseph>はこう話す。
「俺たちは、よく知られた老舗の大レコード会社に対峙することになった。会社はレコーディングに金を出していたし、俺たちはただただプロデューサーに従うことを期待され、発言権は無いに等しかった」
「俺たちは、ずっとよくやったんだ!」と、トロンボーンのクラレンス・クロスデールは、<”Afreaka!”>の曲について断言する。
「バリー・マレーのやつは、あるトラックからオルガンを抜いてしまった!どうやって、それを忘れたのか、俺にわわからんが・・、俺たちはレコードをかけてはじめてそれを聞いたんだ。で、突然!『なんだ!オルガンのトラックは!?』って・・・」
ウィンストンは、「我々は最終的な結果に失望している」と認める。「しかし、そについて我々のできることはもうない。受け入れるしかないのさ」と。

Demon Fuzz

デモンファズと同じくらい、バリー・マレーのプロデュースに苦い思いをしたのは、他でもない彼の代表的なプロデュース作の一つ、「魂の叫び」<First Utterance>をレコーディングした、コーマスだろう。フロントマンのロジャー・ウットン<Roger Wootton>は、イッツ・サイケデリック・ベイビー・マガジンにレコーディング時に記憶に残っていることを聞かれ、次のように答えている。
「最悪だったってことかな?」
「我々は、RCAのためにレコーディングを始めたが、途中で彼らが放り出したために、PYE/Dawnレコードと交渉して、マンゴ・ジェリーの「イン・ザ・サマータイム」をプロデュースしたポップスのプロデューサー、バリー・マレーに引きとられることになった。バリーは、我々のライブも見た事がなかったし、(我々に)ドラムがいないことを知って、混乱して途方に暮れているようだったよ」
「セッションはさらに困難だったし、「魂の叫び」は、我々がライブで発揮したエネルギーを捉えているとはいない。我々は、未だにあのアルバムには失望しているんだよ!」

Comus

散々な評判である。
基本的にバリー・マレーに対し、いくぶん良い印象を語っているのは、フォーク系やブルース系のミュージシャンで、音楽が高度になるにしたがって、プロデューサーとしてのバリーの評価は下がる傾向にあるようだ。
唯一の例外といえば、プログレッシブ・ジャズと位置付けられているアトランティック・ブリッジのフロントマンでピアノのマイク・マクナイト<Mike McNaught>だろう。アトランティック・ブリッジは、アルバム1枚とマキシシングルのみのリリースで成功せずに終わったが、マクナイトとマレーの関係はその後も続いたようで、バリーがプロデュースした、レイ・ドーゼットのソロアルバム(ややプログレッシブな作りで世間を驚かせた)では、アレンジャーとしてマクナイトが起用されている。またマレーがプロデュースした往年のアイドル歌手、ジーン・ピットニーのシングル<I Just Can’t Help Myself>(マレーと共作)で、マクナイトは人生初のポップソングを作曲したと告白している。(他にもマレーとマクナイトは同様にクリシー・ロバーツという女性歌手?のシングルを製作している。)
また、後述するようにマレーがTV業界に進出した80年代には、黒子として彼の製作する子供番組の音楽も実質的に担当していたようだ。
マクナイトは、マレーに関しては何も言及していないが、Dawnレーベル以降も事あるごとに仕事を振ってもらっているので、事実上マレー一家に属しているとも言えるだろう。
大真面目に自分たちの成功を信じていたロック系のミュージシャンに比べ、もともとジャズミュージシャンのマクナイトにとっては、自分のやりたい音楽はそもそも商業的とは言い難い分野なわけで、マレーは生活のための商業的な仕事を世話してくれる好都合なプロデューサーだったということかもしれない。

Atlantic Bridge

マレーは、1975年にDawnがレーベルとして閉鎖されてからも、ポリドールに移籍したマンゴジェリーのプロデューサーとして製作に関わって、ハロー・ネイディン<Hello Nadine>などをヒット(ただしドイツチャートでのみ)させた。また、1973年には、旧知のサヴォイ・ブラウンボーカリスト、クリス・ヨールデン<Chris Youlden>のソロ・アルバム( Nowhere Road )をLondonレコードで、さらにには、メンバーチェンジしたサヴォイ・ブラウンのアルバム、ジャック・ザ・トード<Jack The Toad>をDeccaでプロデュース。1976年にドイツのNovaからリリースされた、活動再開したチッキン・シャックの2枚組アルバム、スタン・ザ・マン<Stan The Man>ではレコード1枚分のプロデュースを引き受けている。

70年代の終わりには、DJMから数枚のシングルのみを発売したボーイ・バスティン<Boy Bastin>というバンドをプロデュースしたことが記録されている。パンクムーブメントの真っ只中に登場し、往年のサッカー選手から命名したパワーポップ・バンドはまったく成功しなかったが、クラシックの作曲家でもあり、英国のクラシックFMのパーソナリティーとしてよく知られているジョン・バーニング<John Brunning>のバンドだったようだ。
現在では主にクラシック音楽界を活動の場にしているバーニングだが、後期マンゴ・ジェリーのメンバーとして、ピアノを担当していた時期がある。バリーとの付き合いは、そこからだろうと推測できる。
ボーイ・バスティンという名前にしてもそうだが、(ま、イギリス人はみなそうなのだろうけれど)マレーもかなりのサッカーファンであるのは間違いないだろう。80年代の初頭には、その年亡くなった元リヴァプールFCの名監督、ビル(ウィリアム)・シャンクリーの追悼レコードをプロデュースしている。(ということは、マレー自身リバプール周辺の出身なのだろう。)
80年代に入るとマレーの仕事は、TVがらみのものが多くなってゆく。
彼がプロデュースして、Technical Records And Tapesから<Army Games>というシングルをリリースしたデイビッド・コッパーフィールド(マジシャンおよびディケンズの小説の登場人物に非ず)は、当時<Three Of A King>というBBCが放映したコメディショウに出演していた人物だ。81年から83年まで放映されたこの番組には、3人のメインキャストが参加していたが、他の2人はジャマイカ系移民でいまやイギリスを代表するコメディアンとなったレニー・ヘンリーと、「夢見るトレーシー」を大ヒットさせた説明不要のコメディエンヌ、トレーシー・ウルマンである。この番組後、大ブレイクした2人にくらべ、コッパーフィールドだけはほとんど成功しなかった。曲の方も、ほとほと酷い代物だ。

80年代の後半、突然マレーはレコードプロデューサーから大きな転身を果たす。
いまでもカルト幼児番組としてイギリスで支持される「ウィズビット」<Wizbit>。1986年から88年までBBC1で放映された、奇妙な幼児教育番組のクリエーターとしてその名前が登場するのだ。

Wizbit – End Credits

確かにTV寄りの仕事は多くなっていたのかもしれないが、番組の脚本、監督、制作となるとこれはまた大胆な転身と言えるだろう。クリエイティブの相棒は、番組の冒頭にも出演しているマジシャンのポール・ダニエルズ<Paul Daniels>で、番組のキャラクターの権利はダニエルズが、音楽と詞の権利はマレーが所有している。
番組の方は、着ぐるみのマペットがパズルポリスの街で、毎回パズルを解いてゆくというもの。主人公は惑星WOW(World of Wizards)から地球へやってきたエイリアンの<Wizibit>(巨大な黄色いコーン型の宇宙人)とその友達の8フィート(2.4m)の巨大ウサギ<Wooly>だ。ほかにも悪役の<Professor Doom>など様々なキャラクターが登場する。
面白いのはこの番組のテーマ曲で、歌っているのはダニエルズなのだが、曲の方はレッド・ベリー<Lead Belly>の幼児用の楽曲<Ha-Ha This A Way>をレゲエ調にアレンジしたものが使われていることだ。レッドベリーといえば「グッドナイト・アイリーン」や「C・C・ライダー 」「ミッドナイト・スペシャル」など多くのルーツミュージックを後世に伝えたことでも知られるアメリカン・フォーク・ブルースの巨人である。そこにはマレーの基本的な音楽の好みが現れているように思える。
(マレー自身があるサイトに書き込んだコメントによれば、この曲の原曲は間違いなくヨーロッパ大陸、おそらくはイギリスのものであるとうと推測されるが、それが、アメリカにおいて貪欲な民謡の収集家でもあった、レッドベリーを通じて再発見されたものであり、それを記録したのは、アラン・ロマックス<Alan Lomax>が米議会図書館の予算でおこなった歴史的な保存のためのパイオニア的フィールドレコーディングであったという。)
ちなみに、番組の音楽監督には、マイク・マクナイトがクレジットされている。
番組は、そのアニメ化やゲーム化、アプリ化などもされているようだ。

この番組の成功の後、90年代から2000年代にかけてどのような活動を続けているのかは定かではない。もちろんマレーの名前は、幾つかの企画物のCDクレジットに見いだすことができる。ベイブチーム<Babe Team>という名義のシングルCD(2002年 Edselレコード)は、サッカーユニフォームの半裸の美女たち(おそらくヌードグラビアで有名な大衆紙ザ・サンのモデルたちだろう)が第一次世界大戦の頃に有名になったアメリカの軍歌、「彼方へ」<Over There>のクラブミックス版を合唱する馬鹿げた代物。当然ながら、エッチな映像のおまけつきである。
エディ・フロイドのソウルクラシック、「ノック・オン・ウッド」を、トランスミックスに仕上げたリミックスタイトルは2008年に(LocoBopから)リリースされている。
いずれも、ミキサーで、元XLレコーディングのハウス・プロデューサーでもあったマーク・テイラー<Mark Taylor>が一緒に関わっている。まあ、現在64歳前後のマレーが自分でトランスミックスを行うのは無理だろうから、当然のことだろう。
ところで現在、バリー・マレーはどうしているのだろう?
彼は、まだ隠遁などしていないようだ。
2014年の最新動向を発見したのは、ウイッカー・ガール<Wicker Girl>というペンネームでホラー映画を専門に評論している女性ライターのブログでのこと。20〜30代に見える彼女は、当然マレーの70年代の成功も、80年代のウィズビットも知らないだろうが、バリーのことをこう紹介している。

ーーーバリーはこれまでマンゴジェリー、ジーン・ピットニー、フューレーブラザースを含む多数のアーチストと仕事をしてきたレコードプロデューサー/音楽出版者/マネージャーで、9曲のトップサーティヒットと、2曲続けての全英No.1ヒットを含む2800万枚のシングルと3300万枚のアルバムを世界中で売ったのよ。彼の最大のヒット、インザ・サマータイムは、日本とカナダを除くすべての国でNo.1を獲得し、今はヒットアニメ「怪盗グルーのミニオン危機一発」でも聞くことができるわ。ーーー
(フューレーブラザースは、アイルランドでドメスティックに幅広い支持を獲得し続ける、民謡的歌謡曲グループ)

バリーは、人を介して彼女に紹介され、彼女が製作中のインディーズ・ホラー・ショートムービーの映画音楽製作を承諾したようである。ブログには、相棒のマークテイラーを引き連れスタジをに入り、音楽制作に指示を出すマレーの姿がアップされている。

まあ、普通に考えれば「イン・ザ・サマータイム」の膨大な版権だけでも、まともに働く必要はないはずだから、このへんの「しごと」は余生の楽しみとも言えるだろうけれど・・・、とりあえず元気なのはなによりだ。
バリー・マレーにとって、ミュージックビジネスは結局のところどこに成功が転がっているかわからない宝の山だったのだろう。マレーの能力はそのサウンドがよくできたかどうかを吟味する力というより、アーチストの個性がどのくらい本物であるかを見極める嗅覚だったにちがいない。
そのサウンドクリエイティブに満足したアーチストはあまりいなかったが、この嗅覚があればこそ、これだけの異端のレコードを世に残せたこということだけは、間違いない。

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